東狗留孫山観世音佛之縁起

(山口県佐波郡出雲村)

当山は人皇四十代天武天皇の勅願にして一国一宇の観世音菩薩と伝う。

白鳳元年(650年)大内家の祖先琳聖太子唐土より持渡られし十一面の霊佛を

国の庄に一箇所の霊場を開き茲(ここ)に安置し賜うものなり。


治承四年(1181年)平重衛の兵火の為鳥有(うゆう)に帰し南都東大寺建立に当たり、

文治二年(1186年)四月源頼朝の命を奉し俊乗坊重源徒弟並びに

武田番匠修理大夫及び諸職人等を率いて周防の国佐波郡徳地の庄に下向せしめられ

材木伐採の為当山に登り 甚だ霊場の衰頽せるを歎かれ

直に番匠をして堂宇を再建し、 徒弟恵浄坊を駐めて守護せしめたり

因って俊乗坊を中興とす。


降て康慶元年(?)の頃より 縣社二ノ宮の社坊を兼ね 連綿して霊佛を守護せし処

明慶四年(?)九月十日野火の為に堂宇に延焼し

住僧清海坊なるもの辛して霊佛を背にして

火災を免れ其の時脇立及び棟札其他佛器寶物灰燼に帰す。


其の後天文九年(1540年)春、防長、筑豊、芸備、石の七州の太守

大宰大鷺従二位大内義隆公当山に狩して

俄かに岩間より光明赫々(かっかく)として 異香薫り屹立した数丈の巌石霊動し

不思議の霊現により渇仰?首して

直に大慶恵海僧に命して堂宇寺院を建立せしめ

再び霊佛を当山に安置し岳、

山内之自然の岩石に三十三身の尊容を刻せしめ

狗留孫山金徳寺と号し

慈海僧を住持とし国家安穏の祈願所と定め

若干の免租の土地を寄せられ

此の御山八丁四面殺生、肉食、女人禁断の霊場とされたり。


其後大内家滅亡し

寛永十八年(1641年)にいたり防長の大守毛利秀就公より寺院を萩の萬願寺に属せしめ

寺領田地などの祖を免し毎年祈願料を下附して

国家安穏、五穀豊穣の為

毎年夏の土用七日間に渡り護摩供を修められ 現今に至れり。


元禄十二年(1699年)九月再び火災に因り諦範阿闍梨霊佛を山外に移し災禍を免る。

寛永元年(1624年)堂宇を再建し霊佛を安置す。

文化十四年(1817年)二月堂宇又々火災に羅り古文書寶物之類を失せしも

幸いにして霊佛恙なきを得たり。

天保十四年(1843年)三月更に建立後歳月を経たるに従い

是の建物腐朽したるを以って更に明治十二年(1879年)建立現今に至れり。

不明点:

  1. 康慶元年,明慶四年:年号が見つからない
  2. 渇仰?首:字が読めない。
  3. 元禄十二年(1699年)九月再び火災に因り諦範阿闍梨霊佛を山外に移し災禍を免る。 寛永元年(1624年)堂宇を再建し霊佛を安置す。:時が逆転