業務施設
阿弥陀寺
重源上人が国司として政務を司った。
東大寺別院。
周防国に上陸した三田尻に近い。
重源上人坐像や白河上皇の坐像、杣だしの時使われた印などが残る。
法光寺
重源上人が杣出し作業の前線基地として使用したお寺。
当時は安養寺として串地域全体を占める大きいお寺であった。
ここに残る阿弥陀佛と東大寺の仁王像の木が同じ産地のものであることが、年輪法によって証明でき、東大寺の再建に徳地の木が使われた事が確実となった。
杣だしの遺跡
袈裟岩様
梶畑にある。梶は加持祈祷に通じる。
杣始めの儀式。
ここから大木を一升峠に揚げようとしたが、重くて動かずとうとう日も暮れそうになった。
そこに重源さんがやってきて、扇子でお日様を扇いで日が暮れるのを防ぎ、おもむろに袈裟を脱ぎ、木を押したところ、するすると動いたという。
この時、脱いだ袈裟をかけた岩に袈裟の模様が写った。
この岩が袈裟岩様として今も祭られているという。
この時使われた扇であると伝承のある扇子が妙寿院に保存されている。
一升峠
梶畑側で伐採した木を三谷側に移動する際の尾根ポイント。
ここに轆轤を立てたという説あり。
木落としの道
一升峠から寿福院までの小道。
石畳が轢かれ、坂を真っ直ぐに通っているところから人が歩く為の道ではなく木を落とすために作った道ではないかと考えられる。
板落とし
一升峠から尾根を伝った山上から大木を落とした跡。
大小の石の床よりなる急坂が北谷川の淵までつながっている。
板落としという名称は製材した板を落としたとは考えにくいので、韋駄天落としのなまったものではないかといわれている。
佐波川関水
大きい材木を川で運ぶについて、川を堰き止め、水かさを増し、川床を滑らかにして流した。
乙女(木津)
三谷川、佐波川本流、引谷川を下った木をここに集め、材質を審査して合格したものに東大寺の印を押した。
この役を担ったのが橘奈良定といわれている。
東大寺の印は現在、阿弥陀寺に残っている。
また、橘奈良定の子孫はその後も徳地に残り今も墓が乙女の地にある。
親族は仁保に移り住んでおられるという。
石風呂
過酷な杣だしの作業に病弊した人々を石風呂で癒したとの伝承がある。
岸見の石風呂、野谷の石風呂は国の民俗文化財に指定されている。
その他にも沢山の石風呂があったとされ、昭和61年刊行の「徳地の俊乗房重源」には77箇所の位置が示されている。
しかし、其々の石風呂が全て重源上人よって作られたものというわけではなく、重源が起こした事業によってもたらされた石風呂が長く人々に愛され広まったと思われる。
社寺
杣だしの為に建立した阿弥陀寺、安養寺(法光寺)の他に上人は沢山のお寺を再興したり、建立したりされている。
重源上人は東大寺再興に寄与すれば魂の救済ができると、人々に説いた。
重源建立と伝えられる社寺
廃 大見寺(現 観音堂)
「棟札に重源作とある」と伝わる
木造十一面観音菩薩像(像高 165センチ)
広目天立像(像高 120センチ)
持国天立像(像高 120センチ)
がある。
廃 西方寺(現 西宗寺)
明治に他の寺と合併し、伊賀地沖の原に移転した。
元の西方寺跡には古碑と墓がある。
建てたのは一遍上人の弟子、遊阿弥陀仏がたてた 古碑(高さ 185センチ)刻字「一字一石、遊阿弥陀仏塔、弘安三年八月九日」
国司元武、元蔵の墓 (高さ 176センチ 宝篋印塔(ほうきょういんとう)) 刻字「牛菴以呼大居士・神儀・慶長十三戌申正月十五日逝去」
廃 浄土寺(現 西宗寺阿弥陀堂)
広目天立像(像高 120センチ)
持国天立像(像高 120センチ)
がある。
廃 金徳寺(現 法華寺)
天武天皇勅願の寺として建立され重源上人を中興開山とする。
今も狗留孫山中腹には観音堂が残り、勅願の碑、中興開山の碑が残る。
嶽の観音として親しまれている石仏は大内氏によって建てられた、勅願の碑、中興開山の碑が残る。
広目天立像(像高 120センチ)
持国天立像(像高 120センチ)
がある。
月輪寺薬師堂(薬師仏))
:島地上村:
聖徳太子建立と伝えられていた清涼寺が荒廃していたので、ここの仏像をお迎えしてお堂を建てたとの伝有。
? ? 廃代健児本光寺文殊堂(文殊仏)):串出会
? 釈迦堂 現観音堂(釈迦仏):三谷
中興開山
金徳寺(現 法華寺)
石風呂
過酷な作業に疲れたり、病に倒れたりした人の施療施設として重源上人が作られたという。
野谷の石風呂
天然の大岩を利用して作った。
岸見の石風呂
今も人々の憩いの場所として使われている。
その他、佐波川流域一帯に大小様々な石風呂が残っている。
千人塚
過酷な杣だしの作業で亡くなられた方を弔ったという。
三谷や串に残る。
米とぎの井戸
人夫の飯場跡といわれる。上人忌には白く濁るという伝説あり。三谷、串、上村(月輪寺内)